ハンス=ティース・レーマン氏レクチャー記録

【ハンス=ティース・レーマン氏レクチャー(第二回:ポストドラマ演劇とテクスト)】
日時:2013/12/16 14:00-17:00
講師:ハンス=ティース・レーマン氏


『ポストドラマ演劇』の著書であるレーマン氏をお招きし、前回のレクチャーの内容をさらに展開させつつ、現代演劇におけるテクストと上演の関係性についてレクチャーを行っていただいた。


【前回の復習から:ポストドラマ的演劇と関係性の美学】
 ポストドラマ的演劇の出現と関係性の美学に適応する芸術の出現は同時期に見られ、双方とも他動性(transitivity)を重視する傾向にある。すなわち、絵画を現実の模写と見るのではなく、絵の具を体験するという認識へと変化したのである。
 この他動性の重視において重要となるのは、作品が問題を提示するのではなく、鑑賞者において問題が再構成されることである。従来の芸術にあったような受動的な形ではなく、より能動的、生産的に鑑賞者が芸術について考えるようになるのである。ポストドラマ的演劇は、テクストや演劇を受容する際に受容者が問題を再構成する必要がある演劇だと言える。
 近代演劇が提示していた芸術観は、「共生するための異なるやり方を提示する」ことにあったが、現代演劇のドラマトゥルギーは「より良いやり方で世界に住むことを学ぶ」方向へとシフトしている。そのような状況において「演劇性」は観客参加によるものとしてみなされる。そこで問題になるのは、ただ一緒にいるだけではない、ということである。そのような観客参加の芸術の場においては観客のドラマトゥルギーがあり、その場は通り過ぎるだけの場所ではなくなる(マイケル・フリード『芸術と客体性』参照)。ジャック・ランシエールはこのような考え方に対して、あまりにユートピア的であると指摘し、芸術とはもはや関係でしかあり得ないのかと批判した。
 現代演劇は関係性により重きを置くようになり、芸術の端へ突き進み、そこからソーシャル・アートへと展開しつつある。その代表例がクリストフ・シュリンゲンジーフの作品である。彼は観客との関係性を意識し、何が芸術であるのかを考えさせるドラマトゥルギーを用いている。マルセル・デュシャンは、何が芸術であるのかという問いを発し、そこにあるのはコンテクストだけであり、そのコンテクストが変化することによって突然芸術が生じることを提示した。これは、コンテクストによって言表行為が成立するか否かが異なるとするJ. L. オースティンの言語行為論とも呼応している。

【現代演劇におけるテクストの役割】
 ポストドラマ的演劇が前提とするドラマには始まり、真ん中、終わりという時間構造があり、また秩序を意味する。だが、始まりと終わりは自動的に作られるのでドラマにする必要はないのではないだろうか、というのがポストドラマ的演劇が最初に持った問いである。
 では、今日の演劇においてテクストとは何なのか。例えばハイナー・ミュラーやサラ・ケインの後期作品はあまりに開かれ過ぎており、演出家はどうするかを決めざるを得ない状況に追い込まれる。テクストはこの時、演劇を既に決定しているのではなく、テクストによって何かを決めなければならないという状況を提示するのである。その時演出家や作り手が直面せざるを得ないのは、演劇とはどういうものであるのかという問いであり、作家はそれを観客との関係性において考えるよう仕向けているのである。
 
【演劇テクストとは:『4.48サイコシス』を例に】
 ケインの最後の作品である『4.48サイコシス』は演劇それ自体についてのテクストであると言える。作品冒頭の「とても長い間(a very long silence)」は、開演前の舞台の状況が沈黙であることに対して明らかに自己言及的であり、その後に続く最初の台詞「でも、あなたには友達がいるでしょう(But you have friends)」は、最初の台詞であるにも関わらず逆接が用いられており、既に何か/作品が始まっていることを示すと同時に「あなた」が観客を直接的に指し、答えなき対話が展開されている状況を提示していると考えられる。続く「あなたは何を差し出すの?(What do you offer?)」という台詞は、劇場の観客に直接問うものである。
 現代演劇におけるテクストとは、かつてドラマがそうしていたように筋行動や時間の流れなどを提供するものではなく、演劇的シチュエーションを創造するためのものである。それはいわば、観客や聴衆とのコミュニティを形成するためのテクストであり、テクストそれ自体が俳優の身体とコミュニケートし、俳優の身体を通じて観客の身体とコミュニケートするのである。その意味で、ケインのテクストは演劇においてのみ機能するのである。
 かつてアリストテレスは、悲劇が提供するのは恐怖と畏れであるとした。だが現代の悲劇においては、それに代わって自覚と責任が提示されると言える。ケインのテクストが観客に促すのは、自らが劇場にいるという自覚であり、演劇に参加しているという責任である。
 演劇テクストは、現代演劇に対してテクストをどう扱うべきかを考えさせ、演劇に何が可能であるのか考えるよう促す。それは言語の限界に対する挑戦でもあり、作り手や観客に対する挑発である。
 ミュラー、ケイン、そしてエルフリーデ・イェリネクの作品は、一人で作品を書くという行為それ自体が集団的な活動であり、集団的な活動はまた個人的な活動でもあるということを明示し、またそのことがテクストだけではなく演劇という活動それ自体に対して自己言及的なものとなっているのである。